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<旅コラム Vol.1>
現代史を旅するラオス、カンボジア
~ビエンチャン・ルアンパバーン・プノンペンの今~

はじめに

ASEAN(東南アジア諸国連合)10ヵ国のなかにあって、これまで日本人にとって一番なじみの薄い国といったら、おそらくラオスであろう。このラオスが今年2016年9月上旬に首都・ビエンチャンで開かれた首脳会議では、議長国として注目を浴びた。理由はもとより南シナ海問題でASEANとして、どういう声明を出すかということであった。結果は中国批判はおろか、中国の行動を否定したオランダ・ハーグの仲裁裁判所の判決にも触れないものとなった。
この結果は、加盟国の全会一致主義もあって、予想されたものであった。そしてラオスと共に、中国批判を控えたもう一つの国が、これまた日本人に比較的なじみの薄いカンボジアであった。
マスコミの論調の多くもラオスとカンボジアを「中国寄り」とし、その背景として両国への中国からの援助をあげた。そして昨年2015年に発足した、ASEAN経済共同体(AEC)の先行きにも懸念が拡がるとしている。
こうした事態を、当のラオスやカンボジアの人たちはどう受け止めているのだろうか。いや、その前にそもそもこの両国は、どんな国なのだろうか。同じASEANでも、日頃日本であまり報じられることのない両国を紹介すべく、ASEAN会合から1週間経た9月中旬から下旬にかけて現地を尋ねてみた。今回は両国の地政学的立ち位置や歴史と併せて、ラオスのビエンチャン、ルアンパバーンとカンボジアのプノンペンの見どころを紹介する。
題して、「現代史を旅するラオス、カンボジア」。

内陸の仏教国・ラオス

【ラオスで消えた辻政信】
先の「東南アジアサミット」の首脳会議に出席した安倍首相が宿泊したラオプラザホテルは、ビエンチャンの中心部にあり、日本人ビジネスマンなどもよく利用することで知られている。ここから歩いて3分ほどのところに、セーターパレスホテルがある。有力な国王の名前を冠したこのホテルは、今から80年以上前に建てられた庭園も見事な高級ホテルだ。このホテルは、かつて旧日本軍の参謀として、ノモンハンやガダルカナルでの無謀な作戦を、服部卓四郎と共に企画遂行した辻政信が、失踪する前最後に宿泊したとされるホテルである。しかし、ホテルの従業員にも現地の日本人にも聞いてみたが、どちらも知らなかった。
辻政信と聞いてすぐにピンとくる人は、今では昭和史に興味のある人以外には少ないかもしれない。終戦をタイのバンコクで迎えながら、僧侶に化けて占領軍などの追及を巧みにかわして日本に帰国。その後、石川県から衆議院議員に当選。のちに、参議院議員に転じたが、現職国会議員のまま、1961年(昭36)4月、このセーターパレスホテルを出発した後、行方不明になったのである。
戦前戦後を通じて、彼ほど無謀かつ波瀾万丈な人生を送った人間はいない。その人間が国会議員のまま、失踪したということで、さまざまな推理が飛び交い、論争がいつまでも絶えなかった。その舞台がラオスだったのである。


20171116_04_01旧日本軍の参謀だった辻政信が、失踪前最後に泊まったといわれる
セーターパレスホテルは、今も知る人ぞ知る名門ホテルだ。
 

【長く続いた内戦】
戦後史のなかで、ラオスが注目されたことがもう一つある。インドシナ半島の地図を広げてみると気付くことがある。やや細長いS字形をしたベトナムの西側に添うように伸びた国がラオスだ。
ベトナム戦争当時、南の解放戦線などの反米勢力を支援するために作られた「ホーチミンルート」は、その多くをラオスとカンボジアに拠った。これをたたくべく、米軍がラオスに投下した爆弾の量は、当時の北ベトナムへのそれを上回った。また、米軍や弱体な南ベトナム軍をカバーするため、米軍はラオスのモン族の若者を訓練して、北や解放戦線と闘わせた。
このベトナム戦争のあおりを受ける形で、ラオスでも内戦が勃発した。スファヌボン殿下らに率いられた左派のパテトラオ(ラオス愛国戦線)、プーマ首相に代表される中立派、そしてワッタナ(バッタナ)国王らの右派という三つどもえの闘いとなった。それぞれに米ソなどの大国がからむ一方で、三派のリーダーが共に王族の出身で異母兄弟やら親戚といった複雑なからみもあって、内戦は長引き、たびたび日本でも報道された。
しかしこの内戦も、ベトナム戦争の終焉(しゅうえん)とほぼ時を同じくして、1975年4月、左派の系譜をひく人民革命党が主導する形で王制を廃止し、人民民主共和国として今に至っている。
ちなみに現在の大統領は、先頃オバマ大統領を迎え入れたブンニャン・ウォーラチット氏である。また首相は、このたびのASEAN首脳会議で議長を務めたトンルン・シースリット氏だ。英語、ロシア語、ベトナム語を話す非軍人の学者出身者ということで、これまでの指導者とは違った期待がある。その一方で、一党独裁、社会主義、集団指導という点では現在のベトナムと似ている点も多い。政治的にベトナムと近いといわれる所以でもある。

 

【首都・ビエンチャンの見どころ】
政治がらみの話が長くなってしまった。観光の見どころも紹介しよう。まずは首都・ビエンチャンだ。ラオスは面積が24万k㎡と日本の約3分の2、人口は約680万人で、このうち約80万人が首都・ビエンチャンに住んでいる。民族の構成はラオ族が約60%、次いでカム族の約20%、モン族の約15%と続く。周囲をベトナム、カンボジア、タイ、中国に接し、上座部仏教を信仰する内陸国だ。
このビエンチャンのシンボルは、タート・ルアンだ。タートは塔、ルアンは大きいを意味し、高さ45mの黄金の塔には仏舎利が納められている。この塔の前には、ルアンパバーンからビエンチャンに遷都したセーターティラート王の像もある。また、タイやミャンマーと同じく仏教信仰の国で、涅槃(ねはん)仏もあるが、ここでは屋外に横たわっているので、一枚の写真に収めることができる。


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<左写真>タート・ルアンの裏手にある涅槃仏は、バンコクやヤンゴン
のそれと違い屋外にあるため、全身がカメラに収まる。

<右写真>パトゥーサイというより凱旋門の方が通りやすい。
戦死した兵士を慰霊するために建てられたもの。

 

次はパトゥーサイだ。戦死者を慰霊するために建てられた門で、凱旋門といった方がわかりやすい。120段余のらせん状の階段を登ると、市内が一望でき、放射状に伸びた道路の先には大統領官邸(王宮)がある。
ワット・ホーパケオはビエンチャン遷都に際し、エメラルド仏を安置するために、1563年に建立されたお寺。しかし、肝心のエメラルド仏は、1828年シャム(タイ)の侵攻により持ち去られたという。訪問した時は、結婚写真を撮るカップルがポーズをとっていた。
フランス時代の建物を利用したというラオス国立博物館は、古代から現代までの遺品や写真を展示してある。建物も展示物も古い感じで派手さはないが、歴史好きにはお勧めだ。

 

【古都・ルアンパバーン】
ラオスの首都がビエンチャンになったのは16世紀のこと。その前のランサーン王国がこの地に誕生したのは14世紀半ば。以来、首都機能がビエンチャンに移った後も、王室の系譜に連なる人たちの多くはこの地にとどまり、古都としての賑わいを保ってきた。
そして1995年、街全体が世界遺産に登録されると、世界中から観光客がやってくるようになった。特に11月から4月までの乾季には、標高500mのメコン川とナムカーン川が合流する人口8万人の山あいの街は、中国、韓国、ベトナムさらには米国やフランスまで世界の言葉が飛び交う国際都市に変貌する。


20171116_04_03 ルアンパバーンの街並みは日本なら木曾の妻籠か、
ベトナム中部のホイアンといった感じの、落ち着いたたたずまいだ。
 

【かつての表記はルアンプラバン】
かつて、日本ではルアンプラバンと発音した。今ではルアンパバーンというのが一般的だ。この理由を地元出身のガイド・チャンポンさんは「ラオスはRの発音をあまりしません。例えば、オーストラリアはオースタリー。同様にRを抜いてルアンパバーンというのです。」と説明してくれた。
この街を歩いていると、中国語の看板の多いのに驚かされる。もともと東南アジアには、広東、福建、海南などから移住した華僑系の人々が多いが、それだけにとどまらない。最近は、中国経済の発展と共に、海外で働く人たちも増えているのだ。ラオスの場合、農業にも進出しており、バナナ畑やゴム園などにも中国人が多数来ているという。事実、中国のナンバープレートをつけたトラックも行きかっており、その存在感は大きいようだ。ただラオス人には、中国製品の品質が必ずしも高くないことは広く知られている。それでも、安さと圧倒的な物量の存在感は認めざるを得ないのだという。

 

【ルアンパバーンの見どころ】
何しろ街全体が世界遺産のルアンパバーンゆえ、見どころも多いのだが、特筆すべき観光スポットをいくつか挙げてみよう。
まず注目すべきは、毎朝行われる僧侶たちの托鉢(たくはつ)だ。朝5時半頃から6時半頃まで、黄色というより朱色に近い袈裟をまとった、総じて若い僧侶たちが素足で托鉢の行に出る。ほぼ一列になって、足早やに黙々と歩くのだが、信心深い地元の人たちだけでなく、観光客もごはんやお菓子を用意して待つ。


20171116_04_04毎朝5時半頃から行われる托鉢僧の行列。
信心深い地元の人だけでなく、観光客も集まってくる。
 

特に旧王女邸やヴィラサンティホテルのあたりは、観光客も集まり圧巻だ。ちなみに、修業中の僧侶の食事は朝・昼2食で、余ったご飯などは煎餅状に干して油で揚げ、他の人たちにも分けるのだという。
この街のシンボルといえるのがワット・シェントーン。1560年に建立されたお寺で、先頃オバマ大統領も訪れたところだ。以前この街はシアントーンといったが、街の名前そのものといったお寺でもある。
元の王宮を博物館にした国立博物館も見どころの1つだ。王制が廃止される前、最後の国王や王族にかかわる展示物などが多い。ここもそうだが、東南アジアのお寺や博物館は入館に際し、靴を脱ぐところが多い。気になる人は靴下の替えを用意した方がいい。
ルアンパバーンは古都として、もとよりお寺が多いが、それにとどまらず高原ならではの雄大な観光ポイントも少なくない。まずは、街の郊外にあるクアンシー滝。滝から流れ下る急流に沿って遊歩道があり、さながら奥入瀬(おいらせ)か、中国の四川省の九寨溝(きゅうさいこう)のようだ。今回訪れた9月下旬は雨季の終わりということで、まだ水量も多く一番奥の大滝からのしぶきもすごかった。
もう一つはメコン川クルーズだ。インドシナ半島を縦断する大河・メコンはここでも存在感は大きく、25㎞ほど舟で上ったナムウー川との合流点近くには、パーク・ウー洞窟もあり、こちらはさながら中国・桂林の漓江下りのようだ。そして、プーシーの丘も挙げておかねばなるまい。330段近い階段を昇るとメコン川とナムカーン川が合流するこの街の様子が一望できる。そして夕方には山の奥に沈む夕日も壮観だ。


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<左写真>クアンシーの滝は、一番奥の大滝までの様々な姿
を変える滝の流れが、游歩道から楽しめる。

<右写真>メコン川に沈む夕陽をカメラに収めようと328段、150m
を登って見るプーシーの丘からの眺めは疲れを忘れさせる。

 

大国のはざまで生きてきたカンボジア

【小中華・ベトナムによる支配】
インドシナ(チャイナ)半島は、その名の通りインドと中国にはさまれた地域だ。インドに接するビルマ(ミャンマー)はインドの、中国に接するベトナムは中国の支配や影響を受けてきた。その中間に位置したタイは、辛うじてバランス外交で中立を保ってきた。
フランスは、あのフランス革命を成し遂げたものの、そのあおりもあってか、植民地獲得競争ではイギリスやオランダに出遅れた。それでも何とか割り込んで獲得したのが、今のベトナム、カンボジア、ラオスの地域だ。一般に「仏領インドシナ3国」と呼ばれるが、出遅れをカバーするかのように、その統治にあたってフランスはかなり腐心した。南北に長いベトナムについては、北部のトンキン、中部のアンナン、そして南部のコーチシナに分け、それぞれ保護領や植民地として統治の仕方も使い分けた。「インドシナ5地域」として。
そして、中華思想を含め高度な中国文化を受け入れていたベトナムに、カンボジアやラオスを統治させるという「ミニ中華思想」ともいえる政策を強いた。これをベトナムもどちらかといえば、肯定的に受容してきた。ベトナムが中国の大国主義とか中華思想に根強い抵抗感を持つのと同様に、カンボジアなどもまたベトナムに対し、今に至る警戒心を持ち続けているのは、歴史の皮肉としか言いようがない。さらにこの遠因には「自由・平等・博愛」というフランス革命の理想もアジアでは全く忘れたかのように、押し進めてきたフランスの植民地政策があったことも明らかである。

 

【ポルポト派の大虐殺】
今から41年前の1975年4月、米軍が撤退し、北ベトナム側が勝利に酔いしれていたのと同じ頃、カンボジアでは後に200万人とも300万人ともいわれる大虐殺を強いたポルポト軍がプノンペンに入城してきた。
カンボジアの政治でまず思い浮かぶのは、このポルポト派とシアヌーク国王(殿下)だろう。ここで、ごく簡単に戦後のカンボジアの政治の動きにも触れておこう。
1953年に独立したカンボジアだが、前述したような地理的状況の中で、その後も絶えず大国にほんろうされてきた。ベトナム戦争の時は「ホーチミンルート」を北ベトナム側に提供したため、米国は反共のロンノル政権を立ち上げた。これに対抗して、シアヌーク殿下はクメール・ルージュと結んでポルポト政権への道を拓いた。その後、1979年1月、反ポルポト派のヘンサムリンがベトナムの支援を受けてポルポト軍を放逐した。ポルポト政権による大虐殺が明らかになったのは、ヘンサムリンが政権を掌握してからである。しかし、その後も日・米両国だけでなく国連までもが、ポルポトらの「民主カンプチア」を支持し、国連の議席も彼らに与え続けてきた。インドシナの強国・ベトナムの影響力の拡大を恐れたからである。UNTAC(国連カンボジア暫定統治機構)などの後押しで、実効支配してきたヘンサムリン政権も交えた新政府ができたのは1993年9月で、ここにようやくシアヌーク殿下を国家元首とする、今のカンボジア王国が誕生した。
大国の狭間で、時に「気まぐれ殿下」などと揶揄されながらも、国民の高い人気を背景に国を治めようとしてきたシアヌーク国王は2012年に亡くなり、今は息子のシハモニ殿下が王位を継承している。
もっともこの国の今の政治は、第2首相時代も含め、実に31年も首相の座にあるフンセン首相が実権を握っている。3年前の下院の総選挙では、定数123のうち68議席を与党・人民党が確保したが、前回の90議席から大幅に減らしただけでなく、選挙に不正があったとの指摘もある。シアヌーク国王も舌を巻いたという政治力でインドシナ最長の政権を維持し続けるだけでなく、長男、次男への委譲も狙っているといわれるフンセン首相だが、経済成長とは裏腹に政治の先行きは不透明だ。

 

【プノンペンの見どころ】
また、政治の話が続いてしまった。カンボジアの首都・プノンペン観光に話を移そう。
カンボジアというと、まず思い浮かぶのはアンコール遺跡群だが、今回はプノンペンに限ることとした。


20171116_04_06独立記念塔の前では、大学生が卒業記念写真を撮っていた。
 

まずは1958年に建造された独立記念塔。アンコールワットの塔を模したともいわれ、新たに建てられたすぐ近くのシアヌーク国王の銅像と共に、街のシンボルになっている。
トゥール・スレン博物館は、ポルポト政権が市民らを拷問、虐殺した場所だ。さびた殺風景な部屋に、これも骨組みだけのベッドと当時の写真が、その残虐さをしのばせる。元学校の校舎跡だというが、今はきれいに整備された中庭に花が咲いていて、幾分気がなごむ。ここには、2万人が収容され9,000人が殺されたという。
そして、それ以外の人たちは生き延びたわけではなく、市の南西15㎞ほどのところに埋められた。キリングフィールドである。ここの慰霊塔には遺骨が、大きなガラスのケースのなかに積み重なるように安置されている。回遊式に裏の庭のようなところを回ると、ところどころに大きな穴の跡がある。遺骨が埋められていた跡だという。


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元の学校の校舎を使った、ポルポト派の拷問場所跡がトゥールスレン博物館だ。
右はキリングフィールド。
 

国立博物館は、赤紫色の建物自体に見ごたえがある。もちろん、アンコール遺跡群を輩出した国だけあって、歴史的に価値ある彫刻も、時代別に数多く展示されている。
立憲君主制のこの国のもう一つのシンボルは、メコン川に面して立つ王宮だ。この王宮前の広場は市民の憩いの場にもなっており、いつも賑わっている。
そして新しい名所が、2014年6月にオープンしたイオンモールだろう。日系のショッピングセンターとあって、おなじみの100円ショップや家電量販店なども入っている。ここは現地の人たちにとっては、デパートか高級ショッピングセンターといったイメージだ。ちなみに、表示はUSドルだが、調理パンが0.6ドルと割高なのはともかくとして、100円ショップが1.9ドルなのは、いささか高すぎる感じだ。実は、アジアに進出している日本の100円ショップはどこも日本のそれより高い。概ね130円~150円くらいで売られていて、日本が一番安いのだが、これもデフレの余波だろうか、などとふと思ってしまった。


20171116_04_082年前にオープンしたイオンモールにテナントで入っている
100円ショップの価格は1.9ドルと日本の約2倍
 

ビエンチャンやルアンパバーンが総じて穏やかな古い街、といった印象だったのに対し、プノンペンはどこか華やいだ派手さがあった。それを象徴するのが、市内東側のトンレサップ川の近くにある大型ホテル・ナガワールドだ。市内唯一の公認カジノがある。ホテルに入ると、いきなりロビー横に設けられたステージで踊りや演奏のショーが繰り広げられている。そのすぐ裏では、ルーレットなどに興じる観光客が集まっていた。なかでは中国語や韓国語が飛び交っていた。

 

【ASAからAECへ】
ASAといっても、ここでの話は朝日新聞販売店のことではない。今から55年前の1961年「東南アジア連合」という、国際組織が作られた。この略称のことだ。参加国はフィリピン、タイ、マラヤ(マレーシアの前身)の3ヵ国である。これより先、NATO(北大西洋条約機構)の東南アジア版として結成されたSEATO(東南アジア条約機構)と共に反共組織としてスタートしたが、ベトナム戦争の終結とその後の東西冷戦の終えんなどもあって解散し、今日のASEANにつながっている。EUに比すれば、ASAはスタート時の欧州石炭鉄鋼共同体にあたるだろうか。
そして将来のEUを摸するかのように、昨年2015年末、このASEAN10ヵ国は関税障壁撤廃をはじめ、より強固な経済的結びつきを目指すAEC(ASEAN経済共同体)をスタートさせた。
しかし、AEC各国は、1人当たりのGDPで比べた場合、今や日本の1.5倍近くになったシンガポールと、地下資源に恵まれているブルネイを別格の第1群としても、他の8ヵ国は第2群のタイ、マレーシア、第3群のフィリピン、インドネシアそして第4群のCLMVと呼ばれるカンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナムに大別される。このうち同じインドシナ半島のなかで、頭一つ抜け出しているタイとの比較でラオスは約4分の1、カンボジアは約5分の1だ。このため「タイ+1」とも呼ばれるこれらの国から、人手不足のタイへ密かに流入する労働者が300~400万人にも達すると見込まれている。労働集約型で独自の成長をめざす両国にとっての、足かせにもなっているのが現状だ。
また、CLMVのなかでもベトナムは1人当たりのGDP比で、ラオスやカンボジアの約2倍近く、ひとくくりにされたくない、といった思いが強い。
こうしてみてくると、ラオスやカンボジアは、経済的な面だけでなく、歴史的、地理的にも複雑な経緯と困難を抱えながら成り立ってきたことがわかる。
以前は空港や橋さらに主要道路も、日本のODA協力で作られたという施設が、東南アジアのどの国でも目立ったものである。しかし、今は違う。これら両国の場合、橋も空港も中国の支援による施設の方が存在感を増している。日本が箱モノ重視を改めつつあることもある。それを割り引いても、実際に現地を歩いてみると、想像以上に中国の人や物が浸透していることがわかる。
それでも、中国に毅然とした姿勢を求める声は多い。しかし、インドシナ半島では、第2次大戦後に限ってみても、国際世論としてこれらの国民のためにきちんとした方向が示されたことはほとんどない。
戦後舞い戻ってきたフランスも、その後を継いだ米国も、そして前述したように、あのポルポト派に対してすら当初は国連も議席を与えてきた。いずれも時の政治的な打算によってである。ラオスもカンボジアも、こうした冷徹な事実は、文字通り目の当たりにしてきたのだ。

 

【アジアのバルカン半島】
ヨーロッパでは歴史上、たびたび民族、宗教、文明の交差点ともいえるバルカン半島がヨーロッパの火薬庫と言われてきた。この例えに従えば、インドシナ半島はアジアのバルカン半島ともいえよう。このアジアの火薬庫にあって、ラオスとカンボジアは、絶えず大国・強国にほんろうされてきたことは、これまで指摘した通りだ。
一方、中国にとって今回の「判決」が表面的にはともかく、内実は相当の衝撃だったことは、単なる「紙切れ」などと、ことさらに強弁したことでかえって明らかになった。だからといって、慌ててにわかに2国に圧力をかけ、この2国が屈したと見るのはどうだろうか。
中国はもっと以前から、入り込んできているのが現実だ。
もしかしたら、アジアのバルカン半島に位置するこの2国が、米・仏・越に対する積年のうっぷん晴らしに「中国の圧力」なるものを利用したと見るのは、いささかうがち過ぎだろうか。力の強くない国が、知恵で対抗する術を心得ていることは、バルカンならずとも歴史の教えるところである。
米国ですら、本音では中国にきっぱりとした姿勢を取るとは思われない現実の下で、経済的にも人口の面でも、ASEANの最後位に位置している2ヵ国に、その踏み絵を求めることは、やや荷が重すぎるように思えたのは、両国を旅して帰ってまだ日がそう経ってないからだろうか。
いずれにしても、ASEAN・AECが今後どう進んで行くかを世界中が注目している。この面でも両国だけでなく、周囲の国からの支援や、その背景への理解が不可欠であることは論を待たない。

 

著者・経歴
株式会社ハートシステム 代表取締役
研修セミナー講師・ジャーナリスト他
坂内 正